ソフトバンクの孫正義社長が大成功を収め続けている理由とは?

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日本を代表する経営者と聞いてどんな方を思い浮かべるでしょうか?

故人で言えば

  • 松下幸之助
    →松下電器産業(現パナソニック)創業者
  • 本田宗一郎
    →本田技研工業創業者
  • 盛田昭夫
    →ソニー創業者

などの方を思い浮かべる人が多いかもしれませんし、現在活躍されてる方だと

  • 稲盛和夫
    →京セラ、KDDI創業者。元JAL代表取締役
  • 永守重信
    →日本電産創業者
  • 柳井正
    →ファーストリテイリング(ユニクロ)代表取締役社長

といった方を上げる人も多いでしょう。

しかし、そういった有能な経営者の中でも群を抜いて世間に注目される経営者といえばソフトバンクの孫正義社長です。

なにかと話題なる孫正義社長ですが、iPhoneを独占販売できた経緯やアメリカの通信事業の買収の裏側などなぜここまで大成功を収めているのかということは意外に知られていません。

お金の神様運営チームで孫正義社長が成功できた理由を分析した結果、

  1. できる思考
  2. 行動力

の2つが大成功を収めた理由であると結論付けることができました。

本記事では孫正義社長が大成功した理由をエピソードを交えて解説していきます。

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①出生から高校時代まで

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孫正義は佐賀県出身で、在日韓国人の実業家の次男として生まれました(現在、孫社長は帰化しているので日本人です。)。余談ですが、ガンホー・オンライン・エンターテイメント社長の孫泰蔵氏は実弟です。

かなり裕福な家庭で、孫正義が小さな頃から孫正義の父は「今度お父さんが出す新製品について、なにか言いたいことはあるかな?」と問いかけて、意見を聞いていたそうです。この経験が経営能力の礎になっていきました。

藤田田の訪問と渡米

孫正義は高校一年生の時に藤田田(日本マクドナルド、日本トイザらスの創業者)の著書である「ユダヤの商法―世界経済を動かす」を読み、アメリカに行ってなにをするべきかを藤田田自身から直接アドバイスが欲しいと考えました。

大企業の社長に高校生が直接アポイントを取るなんて非常識も極まりない行動ですが、孫正義は藤田田の会社に何度も何度も足を運びます。もちろん毎回、門前払いを受けました。

そこで孫正義は受付の方に「拒否されるのはわかるがあなたが判断しないでください。この手紙を藤田田社長に読んでいただいて藤田田社長自身が会わないと判断されたなら潔く諦めて帰ります。」といって手紙を残していきました。

その行動に根負けした藤田田は「15分だけ時間をとる」と判断して、孫正義が願った藤田田から直接アドバイスをもらうという時間が実現します。

その15分間で孫正義は「今度アメリカに行くのですが、アメリカでなにを学んだらいいと思いますか?」と質問をします。そこで藤田田は「私の時代は戦後間もない時期だったから、食物に目をつけてマクドナルドをはじめた。しかし、今は食物は豊富にある。これから人々を世界を動かすのはコンピューターだ。コンピューターを学びなさい。」と言われました。

このアドバイスを実直に聞き入れ、孫正義はアメリカでコンピューターの勉強にのめり込むようになります。

この項での成功要因
できる思考 普通の高校生だって大企業の社長とあって話はできるはず。
行動力 大企業に直接出向き、粘り強く交渉し、藤田田社長に判断してもらうよう頼んだ。

渡米、そして大学入学試験でのとんでも行動

坂本龍馬を描いた「竜馬が行く」を読んで、自分自身を坂本龍馬に重ね合わせ渡米を決意した孫正義はまだ高校一年生でした。

1974年2月に渡米した後、英語学校に入ります。並々ならぬ情熱で勉強を続けた結果飛び級を重ね、渡米から8ヶ月後の1974年10月にアメリカの高等学校の卒業検定試験に合格をしました(2月から英語学校にいて、高校に入学したの9月。実質3週間程度で高校を修了してしまった。)。

そしてすぐに大学入学試験を受験することを決断します(正確には大学入学検定試験。アメリカでは高校操業検定試験に合格すれば18歳未満でも大学の受験資格がある)。

大学入学試験は1日2科目で3日間、6科目(英語、数学、物理、歴史、地理、化学)に渡って行われました。

しかし試験開始直後に試験内容の英語の難しさと量に孫正義は愕然とします。とはいえ「この試験に落ちたら大学に入学できるのは1年後になってしまう、、、そんなに待つことはできない、、、」そう考えた孫正義は「この問題は日本語だったら解くことができ、合格することができる。辞書の使用と時間の延長を認めて欲しい。」と試験監督に交渉をします。

もちろん最初はそんな特別なことを認めるわけにはいかないと試験監督は断るのですが、そんなことで諦める孫正義ではありません。

職員室に行き、試験監督の上司と交渉、それを見ていた周りの教師たちも孫正義の熱意に押され、教育委員長、最後にはカリフォルニア州知事にまで孫正義が直接電話で交渉する大事態になり、最終的には辞書の使用と時間の延長の許可が出ます

午後の15時には一般的な学生の終了時間となりますが、孫正義が初日のテストを終えた時間はなんと午後の11時。最終日に至っては午前0時を過ぎていたそうです。

孫正義は数学と物理には自信がありましたが、英語、科学、歴史、地理は不合格すれすれだと思っていました。2週間後にでた結果は合格。2月に渡米して英語をマスターし、10月には大学に入学を決めました。

この項での成功要因
できる思考 この問題は日本語なら合格できる。日本人の私が辞書を使うのは妥当性がある。
行動力 現場の試験監督だけでなく、決定権をもつ上司、カリフォルニア州知事にまで交渉をした。

②大学生活、ソフトバンクの成長

大学に入学した孫正義ですが、どのように起業への道をたどるのか解説していきます。

ちなみにですが、妻の優美さんと出会ったのもこの頃です。

頭がちぎれるほどの勉強と1日5分で月100万円を稼ぐひらめき

大学に入学してから今まで以上に勉強をしなければならないと考えた孫正義は、食事をしながら勉強し、風呂に入りながら勉強し、車を運転している時も講義をカセットテープで聞いて勉強をしました。

もちろん歩いてる時も勉強をしていたので、大きなリュックサックに教科書をすべていれて移動していました。自他ともに認める勉強の鬼となっていたのです。

そんな調子で勉強をしていたので、成績はオールA、留学生で初めてとなる学長賞を受けるほどでした。

ちなみに

20代で自分の事業を興す
30代で最低、1000億円軍資金を貯める
40代でここぞという一発勝負に出る
50代で大事業を成功させる
60代で後継者に事業をバトンタッチする

という有名な孫正義の人生50ヵ年計画はこの頃に作られたものです。

何よりも将来のための勉強に時間を使いたかった孫正義ですが、大学を卒業したらすぐに起業を考えていたので在学中にも最低限自分で稼ぐと決めました。

アルバイトは効率が悪すぎるし、勉強の時間を減らしたくない。そこで孫正義は1日に5分だけで仕事をして月に100万円以上稼げる仕事はないのだろうか?という突拍子もないことを考えるのです。

1日5分で100万円、、、孫正義はひらめきました。発明だ、と。発明をして特許を取って売る。

経営の神様と言われる松下幸之助も自転車のランプの発明が伝説への第一歩だった。そんな例もある。発明しかない。」そう考えた孫正義はすぐに行動を開始します。

発明のプロセスはいくつかありますが、孫正義が選んだのは組み合わせ法というものでした。ラジオとテープレコーダーを組み合わせてラジカセに、携帯電話とパソコンとウォークマンを組み合わせてiPhoneにと言った具合で今までにあるものを組み合わせて発明する方法です(参考:大学在学中に1億円稼いだ孫正義の発想法)。

1日5分だけという縛りがありましたので、1日に1つ未満の発明しかできませんでしたがそれでも1年後に250ものアイデアになりました。

250のアイデアの中の1つに

  • 辞書
  • 液晶ディスプレイ
  • スピーチシンセサイザー(人間の音声を人工的に作り出す機会)

の3つを組み合わせて「音声付き自動翻訳機」を作ると決めたのです。

しかし孫正義はエンジニアではなく、事業家になりたかったので自分で開発するには行きません。協力者が必要でした。

様々なリサーチした結果、どうやらスピーチシンセサイザーの分野で非常に有名なのはフォレスト・モーザー博士であると突き止め、音声付き自動翻訳機の開発依頼をしにいきました。

最初は断るモーザー博士でしたが、孫正義の情熱に負けて開発を承諾します。もちろん当時の孫正義にお金はないので、出来高払い、成功報酬、お金は試作機ができたら企業に売り込んで払うという約束で契約を交わしました。

音声付き自動翻訳機に夢中になった孫正義は自分の結婚式を忘れてしまい、一週間後に延期してしまうというトラブルなどありましたが無事に開発が成功して、日本の企業に売り込みに行きます。

50社に発明の趣旨を書いた手紙を送付して、返事が来た10社を訪ねて回りましたがあくまで試作機ということで契約を断れてしまいます。そんな中、シャープだけが興味を示し、当時の専務取締役だった佐々木正とのアポイントを取り付けます。

商品の可能性が佐々木専務に認められて、1億円で特許を買い取るという契約になりました。この特許はシャープの電子辞書、電子手帳の礎となっていきます。

結果的に1日5分とは程遠かったからもしれませんが、月100万円以上の収入を達成することになりました。

この項での成功要因
できる思考 勉強と収入を両立させる。お金はなくても協力をしてくれる人がいるはずだ。
行動力 スピーチシンセサイザーの権威に交渉をし、シャープに売り込みにいった。

ソフトバンクの設立、ハドソンと上新電機の独占契約

シャープの契約金を元手にアメリカで事業をしていた孫正義でしたが、大学の卒業を機に日本に帰国します。

そして1981年3月にソフトバンクの前身となるユニソン・ワールドを設立しました。

「必ず日本一になる」と決めた孫正義でしたが、すぐに思いつくような分野で事業をしたとしても10年も経てば頭打ちになってしまう、50年は夢中になれて業界も伸びていくものにしないと。

そう考えて事業計画を練りますが、なかなかそんな事業は見つかりません。

そんな状態だったのにも関わらず、

  • 売上高5年で100億、10年で500億
  • いずれは豆腐のように一丁(兆)、二丁(兆)と売り上げてを数えたい

と雇っていたメンバーに語っていたら、1週間で愛想をつかせてやめてしまったというエピソードがあります。

孫正義は原点に戻り、やはり生涯をかける事業はコンピューター業界であると確信し、パソコン用のソフトウェアの流通ビジネスを開始することになります。

大きな転機となったのはハドソンと上新電機との独占契約です。

ハドソンは当時日本一のPCソフトウェアメーカーで、上新電機は関西で大手の小売店でした。持ち前の資金が1000万円しかなかったのに800万円をかけて出店したエレクトロニクスショーでアポイントをとった勝ち取った契約でした。

ハドソン側はソフトの販売をソフトバンクが全て請け負うことでPCソフトの開発に集中できましたし、上新電機も仕入れをソフトバンクにすべて任せることで小売に集中ができました。

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お金の神様

当たり前かもしれませんがソフトバンクはハドソン以外からもソフトを仕入れましたし、上新電機以外にもソフトを売りました。

しかしソフトウェアの最大手と小売の最大手と独占契約することで他との取引の信用を簡単に勝ち取ることができたのです。

ハドソンと契約する時に1億円の銀行融資を受けていますが、上新電機とハドソンの契約があったことも融資が降りた信用を勝ち取った大きな要因になっています。

この項での成功要因
できる思考 創業間もない会社だが相手へのメリットを示すことで独占契約も可能だ。
行動力 エレクトロニクスショー出店への決断をきっかけに最大手との交渉にまで結びつけた。

忙しく過ごす毎日、体の不調から長期入院、赤字転落へ

流通事業で波に乗ったソフトバンクは、その後出版事業にも乗り出し、紆余曲折あったものの売上を伸ばしていきました。

社員は125人、売上は45億。設立からたった2年後のことです。

土日も休ます、睡眠時間を削って働いた孫正義ですが、社内を見渡すと同じように忙しく過ごす社員ばかりだったのでソフトバンクでは健康診断を受けることになりました。

もちろん孫正義も受けたのですが、検査結果はなんと慢性肝炎。当時の慢性肝炎は不治の病で、慢性肝炎になったら肝硬変、肝臓がんになるのは時間の問題でした。余命5年と診断されたのです。孫正義がまだ25歳の時です。

すぐに長期の入院となった孫正義ですが、ソフトバンク社内では「アメリカに長期出張中」ということにし病気のことは極秘にされました。

孫正義の代わりに綜合警備保障(セコム)の副社長を勤めていた大森康彦に白羽の矢が立ちました。孫正義は会長に、大森康彦はソフトバンク社長の座に座ることになります。

しかし大森康彦は大企業を経営していた経験がありますが、ベンチャー企業経営してきたわけではありません。幹部社員とたびたび衝突を起こして、ソフトバンクの売上を伸ばすことはできませんでした。

慢性肝炎の画期的な治療方法が発見され、3年半ぶりにソフトバンクに復帰した孫正義は大森康彦を会長職にして、社長に復帰します。

復帰早々、ショッピングカタログ誌を創刊した孫正義でしたが全く売れずなんと10億円もの赤字を計上してしまいます。

他の事業がまだ1億円程度の黒字でしかなかったソフトバンクにとって致命的とも言える金額でしたが、その後、大久保秀夫(現フォーバル社長)と組んで、電話を自動的に1番安い回線でつなぐシステムを開発し、日本テレコム(現ソフトバンクテレコム)に売り込みが成功し、ソフトバンクは赤字解消に成功しました。

③上場、そしてM&Aへの取り組み

その後も順調に業績を伸ばしていったソフトバンクは1994年7月に上場を果たします。ソフトバンクの時価総額(会社の価値)は2000億円を超えました

上場で得た軍資金を元に、ソフトバンクはデジタル情報のインフラを抑えて世界でも有利なポジションに立ちたいと考えていました。そんなさなかジフデービスという世界最大のPC系出版社が売りに出されているという情報が入ってきます。

ソフトバンク最初の大型M&Aへの挑戦の幕開けとなりました。様々なトラブルがあったもののジフデービスの買収には成功し、世界最大のコンピューター展示会のコムデックスも買収します。

Yahoo!への出資と上がり続ける株価

インターネット爆発的に普及し始めていたころ、孫正義はYahoo!を友人に紹介されます。

まだGoogleもなかったころの話です。まともなインターネット検索サービスがなかったころでしたので、Yahoo!の検索サービスの質は非常に良質でした。

様々な企業がYahoo!への出資を希望する中、Yahoo!幹部のジェリー・ヤンとデビットファイロの志と孫正義の志が非常にリンクしたことでソフトバンクからの100億円の出資をYahoo!は受け入れます。

その後、1996年1月にアメリカのYahoo!とソフトバンクでYahoo!JAPANを設立し、4月にサービスが開始します。そこからわずか2年弱でYahoo!JAPANも上場を果たし、今でも日本最大のインターネットサイトの一つとなっています。

その後IT関連の株は軒並み上昇し、ソフトバンクの株価はうなぎ登り。2000年には時価総額を20兆円を超える企業にまでなりました。これは数週間ではありますがトヨタ自動車を抜いた瞬間でもありました(当時の時価総額日本一はNTTドコモで約42兆円)。

ITバブルの崩壊、そしてブロードバンドへ

成長産業であったとはいえ、過剰に上がりすぎた株価はいつか終焉を迎えます。

2000年2月をピークにITバブルは崩壊しました。

非常に経営的に苦しい時期を迎えますが、ソフトバンクは通信事業に参入を決定します。どんどんと広がっていくインターネットの世界に取り残されるわけにはいかなかったのです。

通信事業、すなわちブロードバンド(速いインターネットの速度を実現する方法。当時の日本はISDNという低速回線が主流だったが、韓国などはADSLという高速通信回線インフラが整備して、非常に環境がよかった)を広めていくことをソフトバンクは選択します。

下記のような形でYahoo!がモデム(電話回線からインターネットをつなぐ機械)を配っているのを記憶しているからも多いのではないでしょうか?

ブロードバンドを広めるためにどうしてもキャッシュが必要だったソフトバンクは、あおぞら銀行や苦心の末に手に入れたコムデックス、ジフデービスなど様々な事業を売ってまで取り組みました。

しかしドンドンと先行投資をし、1000億円もの多額の赤字を計上してしまいます。ソフトバンクの株価は2002年の終わりには最高値の約1/80にまで落ち込みます。

その後、ソフトバンクは2004年に顧客情報漏えい事件を起こしてしまうなどのトラブルがありつつも、日本テレコム(現ソフトバンクテレコム)の買収に成功するなど着実に売上(2004年度には8370億円)を伸ばしていきます。

ボーダフォンを買収し、モバイルインターネット推進の立役者へ

携帯電話事業に参入する前に売った布石:球団買収

ブロードバンドでの成功を収めたソフトバンクが次に目をつけたのは世界的に急速に普及する携帯電話でした。

IT業界では非常に有名だったソフトバンクですが、個人相手のビジネスをほとんどしてこなかったため一般消費者の認知度は非常に低い。そこで携帯電話事業に参入する前にしたこと、それは福岡ダイエーホークスの買収だったのです

買収に200億円もかかり年間30億円もの赤字を出すと言われている球団経営ですが、「ソフトバンク」の認知度を上げるためには球団を持つことが非常に効率的でした。

買収はトントン拍子で進み、2004年12月に福岡ダイエーホークスは福岡ソフトバンクホークスに、福岡ドームはYahoo!JAPANドームになりました。

携帯電話事業に参入する3つの方法

ソフトバンクが携帯電話事業に参入するには

  1. 自力で参入
  2. ボーダフォンを買収
  3. MVNOで参入(docomoやKDDIなどから電波を借りる方法)

という3つの方法がありました。

ボーダフォンの買収することで、

  • 1500万人のユーザーが一瞬で手に入る
  • 既存の通信設備があるので、0から作る必要がない

といった大きなメリットがありましたのでボーダフォンを買収方法を取るのですが、ボーダフォンを買うために必要なお金は2兆円当時のソフトバンクには2000億円しかありませんでした

しかし、将来のモバイルインターネットを制するためには絶対にボーダフォンが必要。様々な資金調達の方法を駆使し、2兆円を用意したソフトバンクは、2006年3月にボーダフォンの買収に成功します。

2兆円のM&Aは日本最大の金額となりました。

伸るか反るかのナンバーポータビリティ

2006年10月からモバイルナンバーポータビリティという電話番号が変わらずに携帯電話の会社を変えることができるようになることがソフトバンクにとっての大きな勝負どころでした。

1500万人のユーザーがいましたが、2000万人になったら大幅な利益を見込むことができ、最悪でも維持できれば携帯電話事業は成り立ちます。しかし、1000万人になってしまったら赤字地獄をみることになる。ソフトバンクの正念場でした。

しかしソフトバンクは

  • ホワイトプラン(ソフトバンク同士の通話が無料になるプラン)
  • Wホワイト(月980円で他社への通話が半額になるプラン)
  • 非常にユニークな犬のお父さんのCM

などの当時は斬新だった戦略がうまくいき、2007年の5月から8月まで純増数No.1になりました。モバイルナンバーポータビリティが始まる前から考えたら予想もできないほどうまくいったといっても過言ではありません。

iPhoneの独占契約

2007年1月に発表されたアップルのiPhone。日本入ってきたのはiPhone3Gの機種で2008年6月からでした。

そこでdocomoやKDDIを差し置いて、独占的に販売できたのはソフトバンクでした。なぜソフトバンクとアップルが契約をするに至ったのでしょうか?

それは数年前に遡ります。

携帯電話事業を始めようと思い、様々な機種を模索していく中でiPodの先見性に心打たれた孫正義はスティーブ・ジョブズ(アップル創業者)に会いに行き、「一緒に革命的な携帯電話を作らないか?」と持ちかけにいきます。もちろん、まだ事業を始めてもいない孫正義は断れられてしまうのですが、この時の商談がiPhoneを独占的に販売できた理由だったのです

2011年発売のiPhone4SからKDDIからもiPhoneが発売されることになりますが、独占的に販売できた3年間はソフトバンクにとって非常に大きな3年間でした。2010年度の売上は3兆円を超えるまでになります。

この項での成功要因
できる思考 赤字が続いたがモバイルインターネットは世界を席巻する。ソフトバンクはその立役者になる。
行動力 何兆円ものリスクを取り、スティーブ・ジョブズにも先手を打つことでシェアを伸ばした。

④これからのソフトバンクと孫正義

ソフトバンクは一貫して「情報革命で人々を幸せに」というビジョン元、事業を行ってきました。

そのビジョンを元にこれからどのような経営をしていくのかがわかる動画があります。2時間と長い動画ですが、是非ご覧になってみてください。

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上記動画が見れない方は下記URLが参照元です。
http://www.ustream.tv/recorded/7882795

もし動画が見えない環境の場合、動画を書き起こしたサイトがありますので参考にしてください。

世の中から人生最大の悲しみ「孤独」をなくしたい–孫正義が本当に目指していること

最後に

今もビジョンの達成に向けて走り続けている孫正義社長。

ここ数年でも

などなど様々な所で世間を賑わせています。

これからも孫社長と成功に導いてくれるのは

  1. できる思考
  2. 行動力

なのかもしれません。

参考文献

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